関西地区では初めてのオートレース(園田オート)が園田競馬場の馬場を利用して開催されていたが
開催が断定的であった為か、売上が不振
また
競馬関係者から「馬場が固くなる」という声もあがり
園田オートレース場の登録取り消しを行い、昭和28年1月に登録取り消しが決定した
その後、兵庫県は甲子園競輪場の走路の内側に周長350mのオートレース走路を設置し
甲子園オートレース場が誕生したのである
甲子園競輪場のバンクを利用して再び開催されることとなった
1953(昭28)年3月17日:甲子園オートレース場が開場される(主催:兵庫県)
周長:350m、幅員:15m 競輪場走路内側を使用(3級走路)
初日の入場者数は僅か1、100人売上は200万円と散々たる成績であった
(当時の甲子園競輪の売上は1日1、500万円に達している)
その後 競輪との併催、単独開催を繰り返すも
3級走路である為、重量車のいない3級車・4級車でレースを行わなければならなく
また、車の故障、短走路で迫力に欠ける点
競輪場と併用により走路が荒れる
競輪走路にオイルが飛ぶ
という競輪側の不満などが出てきて
次第にオートレースの運営は兵庫県にとって重荷となっていった
やがて開場から2年が過ぎたが売上は下降線をたどり
ついに廃止声明が出された
1955(昭30)年3月26日:甲子園オートレース場が廃止される
その後、兵庫県ではオートレース場誘致の話は上がらなくなった
兵庫県西宮市甲子園1−8−33
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